カテゴリー「宗教」の31件の記事

2012年6月 2日 (土)

大国主の神話 吉田敦彦著

毎年、近所の七福神を巡ったり、府中市になる大國魂神社にお参りしたり
することはあるので、あの大黒様について書かれている本をみつけて
手にしてみました。

学習院大学名誉教授の 吉田敦彦さんの

大国主の神話 ~出雲神話と弥生時代の祭り~

大黒様の神話とギリシャ神話の相違点といった比較は面白く
昔むかしのその昔、何かつながりがあったのではないかと
おもわずにはいられませんでしたし

歴史と神話が同居している時代の暮らしから派生する
神話の輪郭をとても面白く読みました。

現代に生きる私たちも、何かしらの世界観を無意識に
もっていて、それがどのようなものであるかも我々に
委ねられているのですが

ある程度の世界観を人々が共有した時代というものが
どのようなものであったのか興味をおもちました

いまも企業の中にいれば、そうした世界観を共有するという
ことがあるわけですが、そうした事柄との対比もまた
楽しいと思いました。

そして、大黒様はある種のカリスマだったと思うのですが
そんな力を得て 世の中を羽ばたけたらこれはすごいことです。

神話の世界、普段は無縁ですが 面白いですね。

2012年3月 5日 (月)

生駒山 『生駒の神々』 宗教社会学の会編

奈良の生駒山には宝山寺がありますが、そのほかにも多くの
寺社があり、中には朝鮮寺と呼ばれる在日朝鮮人の方からの信仰を
集めているところもあるとのことで、さながら宗教の密集地域であることを

宗教社会学の会編 聖地再訪 生駒の神々 変わりゆく大都市近郊の民俗宗教

にて知りました。

聖地再訪 生駒の神々: 変わりゆく大都市近郊の民俗宗教

これは、宗教社会学の会が、1985年に『生駒の神々』を出版しており
ここに掲載されている宗教施設を中心に改めて、生駒の調査をしたもので

昔ながらの講や信者が減っていく反面、スピリチュアルブームで
若い人が団体で寺院に押し掛けたり、小グループで瀧行にやってくる
また、石切神社近くの占い店の様子

はたまた後継者がいない宗教施設を大阪の建設会社が手に入れ
その宗教法人を主体として霊園経営をしているなど

大都市圏からすぐの聖地ではあるけれど 古くからある信仰の地も
現代の世相がみられることが よくわかりました

それでも、関東にいるとわかりませんが、このブログでも
大阪の民間信仰の本を読んだことを紹介しましたが、
西日本のこうした民間信仰の根強さは 怪しい新興宗教に対して
免疫を高めてくれる役割にもなるのではないかと思います

生駒の宗教施設も 初代に何かしら霊力やカリスマ性があって
信者を得てお寺を創建する

※お寺といっても一般の住宅に祭壇があるという感じのものが
 多いようです。

そして、その初代が鬼籍に入るころには、信者も高齢化してきて
徐々に静かになっていく、代替わりが上手くいかずに
すたれてしまうことも多いようで、そうしたことで新陳代謝も
繰り返すのですが、修験道の修行の山であることからも
わかるように、一定の自然が 宗教の暴走を止めてくれているようにも
思います。

また、新たに創建されたお寺も多くは、古くからの仏教の
宗派の末寺や教会といった位置づけにあるものもあり
そうしたことで統制がとられているように感じました

なかなか、関西に行くことはないのですが
時間があったら 生駒山に行ってみたいです。

2012年2月27日 (月)

結縁灌頂

学研の 密教がわかる本 エソテリカ編集部編 は
とても詳しく 密教のことが紹介されています。

その中で、結縁灌頂という 一般の人向けの修法があることを
知りました。

Wikiによると

結縁灌頂(けちえんかんじょう) 出家して、どの仏に守り本尊と
なってもらうかを決める儀式。投華得仏(とうけとくぶつ)といい、
目隠しをして曼荼羅の上に華を投げ、華の落ちた所の仏と結縁する。
曼荼羅には鬼神や羅刹などもあるが、その場合でも、祀り方などや
儀式を伝授される。空海は3度これを行い3度とも大日如来の上に落ちた。

となっています。

ネットで調べるとこれを高野山でも行っているそうです。

http://www.koyasan.or.jp/kongobuji/event/kechienkanjo.html

また、高野山での灌頂では、すべての絵が大日如来となっている
そうですが(体験者の方のブログなどによると)どうなんでしょうか。

秘密めいたものが 名前の通り 密教にはありますね。

自分も経験してみたいなあ~と思いました。

2012年2月23日 (木)

多田等観のこと

先日読んだ、ペマ・ギャルポさんの本の中で

日本とチベットの歴史の紹介で 鎖国状態のチベットを訪れた日本人のことが紹介
されていましたが、その中の一人、多田等観の評伝がありました。

チベット学問僧として生きた日本人 多田等観の生涯
高本康子著

【チベットを訪れた日本人】
-----------------------------------------------------------------------------------------
1899年      寺本婉雅・能海寛 入蔵試みて失敗
1901年(明治34年)河口慧海が日本人で初めてラサ入り、『西蔵旅行記』
1901年(明治34年)探検家成田安輝がラサ入り
1904年            寺本ラサ入り
1909年      多田等観がインドでダライ・ラマ13世に謁見。
1911年(明治44年)軍人で探検家の矢島保治郎がラサ入り。矢島は後にチベットの軍事顧問。
1912年      青木文教がラサ入り、雪山獅子旗のデザインに関与した説あり
1912年      多田等観ラサ入り 1922年にラサ発。10年間の僧院生活。
1939年      野元甚蔵がチベットに滞在。
1945年      木村肥佐生ラサ入り
1945年      西川一三ラサ入り

多田等観は秋田の浄土真宗本願寺派の寺の三男として生まれます。
チベットとの関わりも、日本に来ていたチベット人の世話を京都の西本願寺で行うことに
始まったわけですが、チベットの仏教及び文化の吸収を一番大きくなされた方ではなかったかと
評伝を読みながら思いました。

それにしても当時の日本人をチベットに掻き立てるものは何だったのでしょうか。
宗教家と陸軍では思惑も違ったでしょうが、とても不思議です。

私の興味では、そのように入蔵した人々の冒険家気質のようなものがとても気になります。
そして、その意地のようなものが、今後のグローバル社会の中でも役に立つセンスとならないか
そんなことを思って関連の書籍があると読むようにしています。

2012年2月18日 (土)

玄侑宗久著 「地蔵のこころ 日本人のちから」

玄侑宗久さんの 「地蔵のこころ 日本人のちから」から

賽の河原で、亡くなった子供が 小石を積み上げていると
鬼が出てきて子供たちをおいかける
そこにお地蔵様が出てきて 鬼を追い払ってくれるのだけど
それでおしまいで 鬼がいなくなると引き下がって
また子供は小石を積み上げ始める・・・

よく知られているこの話のなかで、実は悪いものとされている
鬼の存在も認めているのが仏教の考えを表しているとのお話しが
ありました。

この本を読みながら、仏教のもつバランス感覚は秀逸と思いました。
では、そのバランス感覚はなぜ必要なのか、それは、本質を見極めるため
にはバランス感覚が欠かせず、その本質を見極めることが、自身の悩みや
問題に向き合う時に必要な作業となるからではないか
そのようなことを感じました。

2011年12月23日 (金)

教会の美しさ

ちょうど クリスマスでもあるので
手元にあった 女優の KIKIさんの 『美しい教会を旅して』を手にした

著者自身が ミッションスクールの出身ということをこの本から知った
のだけど とても 真面目に 奄美大島や五島列島、沖縄の 風土の中に
ある教会を取材をしていて 共感をもったし その場にいって
この季節だけ 敬虔な信徒になってもみたいと感じた

それは 宗旨ゆえの恭順ではなくて、何かその土地の人に触れてみたい
そんな勝手な旅人のような心持ではあるのだけど
それでも少しは祈りの時を持てるのではないか そんなことを想像した

2011年12月18日 (日)

頭と心と体 - うつに向き合う前に-

昨日、久しぶりに 高野山の東京別院の阿字観実修会に行ってきた。
なかなか土曜日の朝というのは身動きとれないし、時間を許してくれた
家族には感謝しなくてはいけないのだけど

その実修のあとで、指導されている先生のお話を聞く時間があって
そこで 人は肩から歩くようになると横柄になったり慢心だったりと
してくるので 肩は気をつけたほうがいいですよ・・・といった
お話があった

心が先か 頭がさきか 体のこうどうが先か それはわからないけど
それぞれが きっかけであり、結果であるように思えて
普段、何気なくおもっている自分というものを 頭と心と体に分類して
みると何やら物事がわかってくるのではないかと思った

ちょうど、ダライラマ・ラマ14世の

「空の智慧、科学のこころ」では 般若心経のことが解説されていて
空とは何か・・・といったテーマが扱われていて これを読み進めると
もう少し何か考えられるのでは・・・と思いつつ

また、

「それは「うつ」ではない-どんな悲しみも「うつ」にされてしまう理由」
アラン・V・ホーウィッツ/ジェローム・C・ウェイクフィールド著

では、

アメリカ精神医学会(APA)が発行する精神疾患の診断・統計マニュアル 第4版
について、様々な角度からその疑義が精査されていて

冒頭にあった
アーサー・ミラーの「セールスマンの死」の主人公 ウィリー・ローマンの
見解について 初演当初は社会問題だったものが 再演されたときは精神病扱い
とみなされたという挿話があって 一つの同じ事柄でも社会変化の中で うつ病へと
昇華していくことは確かにありえると思った

そう考えると、よほど現代人は 自分のメンタルを守るための知識を
持ち合わせていなくてはいけないのではないだろうか

たとえば、いまの日本でとりあえず うつ病の診断書があれば 投薬や休職など
フォローの体制はあるだろうが、それですべてが解決するわけでもない
一時的な逃避行にしては良く出来すぎていて 言い方は悪いが、逆に人を
追い込んでしまうようなことはないだろうか

こう考えた時に、人間の頭と心と体がそれぞれ別で しかも関連を持っている
とすると何か工夫ができるとおもう

心が病んでいる とおもって 心だけを治癒しようとするのではなくて
体のことを考えてみるとかすると 結果的に良好なことになるといったことが
現実に感じられたらいい。

2011年11月 8日 (火)

法然と親鸞

この前、このブログで親鸞について本を読んだ感想を書いたのですが

http://hibiteki.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-4ac7.html

必然というか 当然というか 親鸞の師匠である 法然にも興味を持ちました。

おなじ新潮社の トンボの本、こちらのシリーズは 芸術新潮とかの
特集をまとめたものなので クオリティは高くて 安価という 良い面を
持っています。

仏教入門 法然の「ゆるし」 (とんぼの本)
梅原 猛

こちらを読むと、個人的には 法然のほうが好きだなあ・・・と
感想を持ちました。

おおらかさのようなものが全体に感じられる一方、大きな変革をもたらした
パワーや真摯さ、執着のなさといったものが、もし自分が同じ道を歩むとしたら
どうであろうか、そんなことを考えさせられました。

それ故に 本のタイトルに 「ゆるし」というキーワードがあるのかも
しれません。

また、梅原猛さんの寄稿に、法然の思想に強い私淑を感じました。

ところで、よく 求道と言いますが、この「求」は「救」ではないか
そのように思います。

どうやって救うか、これは宗教家だけではなくて、市井の人々にとっても
大切な課題のように思います。

法然や親鸞の生き方を学ぶとき、その教義などを理解するよりも何よりも
今 自分が 何を救おうとしているのか、そのために何をしているのか
と自問し、また行動をしていくことが 必要ではないかと思いました。

それに翻って、現代の寺院が何をしているのか、よくこのブログで
取り上げるお坊さんたちは どちらかと言えばアクティブなのですが
そうでない場合も多くあるように思います。

そうしたまなざしを 己にも また 既存の宗教にも向けていくことが
とても大切なのではないでしょうか。

追伸・・・

ネットで 救道 と検索したら 親鸞を中心にする仏教のサイトがみつかりました。とてもいいなあとおもったので ご紹介します。

夢相庵 http://www.plinst.jp/musouan/index.html

2011年11月 6日 (日)

親鸞のこと

法然や親鸞には あまり縁がなくて
これが菩提寺の宗派が浄土宗や浄土真宗であれば違ったのですが
そうでもなく

たまに芝の増上寺を訪れると念仏をささげる姿があって
念仏のお寺だったのだと思うこともあったのですが

親鸞や蓮如がブームなときがあっても
それでも自分自身でその教義や思想、彼らの人生について
知ろうとはしませんでした

だから 新潮社の とんぼの本 の 仏教入門シリーズの中の1冊に

『親鸞の「迷い」』梅原猛・釈徹宗 があったときに

親鸞の迷いというけど、お坊さんが迷うのだろうか
何について迷ったのか ということが タイトルへの疑問として
湧いて、読むことにしました。

親鸞の人生、それは多くの方がご存じのとおりで、
エリートコースを歩んだわけではないし、僧として公式に妻を持ったりと
穏やかな人生を歩むよりは、波乱万丈であったと言えるのではないかと
思います。

迷いと改めて言われると、何かすごいことのように思うのですが、
そうした誰にでもある普通の人生の中にある迷いと同じレベルであった
としても、

その解決方法を必死に模索し、その上、さらにそれを常に自問する
取り組みもまた、迷いであったかもしれないと感じました。

常に湧きおこる迷い故に、いつでもまっすぐに、その道を歩むことが
できたのではないでしょうか。

冷静に思うと、教義がシンプルだったせいで、逆に門徒の中に
いろいろな解釈が生まれて混乱したり、妻帯したために、跡目相続の
ようなものが付きまとったりと、結果、自身の選択が引き起こした
混乱もあるように思いますが、そうした姿は現代人にも似ているように思いました。

親鸞をイメージすることは、現代人にとって身近な道しるべを
得ること同義のように感じます。

2011年10月17日 (月)

ダライ・ラマ 夜明けの言葉

ダライ・ラマ14世 の本は読むようにしている。

ダライ・ラマ 心の自伝
http://hibiteki.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-f483.html

そして 今回 「夜明けの言葉」を手にしました。

これは、講演やインタビューのなかから 言葉を選んだもので
数行のメッセージをテーマごとに編集されています

さらに チベットやブータンの写真が入っていて
いつかは言ってみたい または 語られる言葉の姿のようなものを
想像させてくれます

日本で過ごすと、強い日差しや砂ほこりにまみえるということは
あまりありません

ですが、チベットやブータンのくらしの中では、自然のことで
その厳しさは人の肌にも しわ をより深く強く刻むように思います

その しわ を受け入れることがはたして私にできるか そのような
ことを思いました

一方で、そうは言えども年を重ねる中で しわ は出てきます。
やはりまた、 それをどう私は受け入れるのか と思いました。

よき顔であること それは どのような信仰を持とうとも共に
欠かせない 大切なことではないでしょうか。

さて、そのような中で 本書で 繰り返し語られていること
それは 怒りに 忍耐と慈悲で接して 怒りを消していく
そのときに よく思考して善悪の判断をすること

また、次の世代を考えて よく生きること
生と死の意味などについてです。

輪廻も考え方によっては 霊的なものとしてではなく
客観的なものとして とらえることができます。

現在の連続に将来があるならば 今をよくすることが
将来をよくすることにつながる

逆に 今が悪い状況であれば その原因は過去から続く
どこかに原因があるのかもしれない

そしたら何をしようか
そこには限界もあるかもしれないが、自分の内面には
限界はないだろう・・・と

とてもシンプルなことなんだなあと 改めて思いました。

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