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2010年3月 4日 (木)

等身大の孔子と論語

このブログでは、たまに、これからはマトモな人間のほうが生きにくくて
ちょっとひねくれてる人のほうが生きやすい社会になっていくのでは
ないか そんなことを書くことがあります。

それは子育てであったり、日々の生活を通じて思うことなのですが、
それに対する危機感を実感するには、おそらく普通の子育てが
一番ではないかと思いますが、

いまは、そうした生活感すらが高級なものになりつつあります。

例えば、ニュースで 親の子殺しを悲痛な顔で報じるその人が
実際に子供の母親となる確率がどれほどあるのでしょうか・・・

さて、「論語ビジネス塾」を読んでみると、様々な識者が述べて
いることをまとめると

・リーダーの不在、だから論語が必要だ
・孔子も普通に苦労してそこに思想を構築した

といった 二つの論旨があるように思います。

そこで、考えたことは、そもそも孔子という不遇な人生を過ごした
思想家の思想を高度経済成長のなかで、もてあそんでしまった
最後の層というものが存在していなかったかと そこが
そうした問題の因子になっていないかと感じます。

江戸末期から戦前までの教育の中で、かろうじて論語の
浸透が市民にあり、それから戦中・戦後に多くの命が失われ
ある種、その混乱を作り収束させたインテリ層だけの玩具として
論語が使われた。

その結果、市民生活や経済活動からも遠い存在になって
しまったのではないでしょうか?

そのように論語を扱い、結果的に経営者の教養のように
仕立て上げてしまったことに罪があり、その反動として、
すなわり崇拝者の人口が減って儲からなくなり、あわてて、
孔子が思想を構築した過程をクローズアップしてきたように
思います。

とても うがった見方で、このように考えたくはないのですが
結果的に、日々の暮らしに論語を置く、何かしらの思想を
構築して生きていくことができれば、それが何であり、
良薬にはなりえると思います。

もちろん、孔子や論語を否定はしたくないし、尊重したいですが
自分自身が、ただのとりまきのようになることは
慎んで行きたいと考えています。

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