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2006年8月24日 (木)

作家・井上ひさし さんの講演を聴いて

木曜日、都内で作家・井上ひさしさんの講演を聴きました。その中で、第二次世界大戦が「だれの責任か」というお話の中で、こんなことを話されていました。

サンフランシスコ講和条約の11条の中で、戦争犯罪を裁いた裁判を受諾することと、締結各国は、日本への賠償請求を放棄するという内容が書かれているらしいのですが、この条約を結んだとき、国民は、少なくとも、戦争は一部の軍人・軍閥等の責任であり、国民は被害者というフィクションを受け入れた。そして天皇を守った。

もし、東京裁判の結果に異を唱えるのであれば、日本人自らの手で、戦争は誰の責任なのかを裁き、被害を与えた国に賠償をしていく必要がある。時が流れた中で、果たしてそれができるのでしょうか。また、その覚悟をどれだけの方が理解されているでしょうか。ということを話されていました。

条文の解釈などの論評もありますが、誰の責任が戦争が起きたのか、そして多くの人がなくなったのかを、日本人自らが見定める必要があるのだと思います。少なくとも説明ができなくては、おかしいです。

いま、問題になっている靖国神社に祀られた方の中にも、敵国の兵士と戦い命を失ったわけではなく、国の失策のために命を犠牲にさせられた方が多くいるはずで、もしそうした人たちの家族であったときに、加害者と一緒に祀られて満足が本当にできるものでしょうか。

それを、例えば外国が悪いからと別の理由を挙げることは、戦中と何もかわらず、むなしい気持ちがします。

もし一国の首相が、被害者と加害者を祀る社に、参拝をした場合、同じ被害者と考えている隣国の人々がそれをどのように直視するのでしょうか。

歴史を語る前に、私たちは、私たちの“想い”をひそかに隠しながら生活をしていないでしょうか。暴力ではなく、ぜひ、この国を創る一人ひとりがもっと真剣に考えてもいいことが、たくさんあるように思います。私たちがいて、その付託により国会や政府はある訳ですから。

「政府が滅びても、私たちの生活は明日も続くのです」 この言葉とてもいろいろなことを考えさせられました。

そして最後に。

「今生きている人たちが言葉にできない、時代を動かしている何かをかぎ出して表現することが芸術家の使命」だと

作家であるのに、何も物語を語らずに、ただ物事の本質を見極める視点に接することのできた講演会でした。

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